飯舘村・東日本大震災とその後

3月11日東日本大地震の状況

今回の地震は、今までになく揺れが大きくかつ長時間にわるものだった。余震も間断なくあり、いつも揺れているような感じである。

我が家では、箪笥の中のものが散乱し、食器棚から食器が落ちて割れ、冷蔵庫の中のものが飛び出したりしていました。

村内は、道路に少し亀裂が入った所があったり、屋根瓦が落ちたりするのが散見される程度で、道路の不通箇所は無く、村外へは、八木沢峠も川俣 からも県道12号線は問題なく通れる。

電気は地震直後から途絶え、昨日(13日)から村内の集落単位で復旧しているようで、ここは夕方だった。
 インターネット接続や固定電話(光電話)は、私のところでは昨日(13日)夜遅く回復した。

村営水道は、問題なく使用できている。

ただ、食べ物が調達できるかは、現時点では不明。直売所に電気が来れば、米粉パンを焼く予定にはしているが、いつ来るか。長期間の停電だと、仕込んでいた冷凍庫の物がだめになるので、早く復旧してほしいのだが。

それと、昨日現在で、村内ではガソリンがまったく補充できず、私も大変困っている。

今のところ、飯舘村は原発事故の直接的な影響は無く、浪江などからの避難者の受け入れ場所(草野小学校など)になっている。

雪はほとんどなないのですが、朝夕冷え込みでブラックアイス状態のところもありますので、通行には気を付けてください。特に、浜通りの車のタイヤは、雪道仕様になっていない場合があるので。

2011年3月14日 7時記

4月30日現在の我が家の状況

3月14日の夕方、2号機の燃料棒が融着とのテレビ報道で、幼児がいるため避難を決心し、22時ごろ、ガソリンが半分ぐらいの娘の車で飯舘村を出る。

息子のいる仙台に15日早朝到着、安否を確認後、実家のある秋田まで避難する途中、新庄市でガソリンが尽き、どこでも入れることができなかったので、雪の中、駅前の駐車場で車中泊したものの寒い上に幼児もいるため、次の日(3月16日)、ここの避難所にお世話になった。

私どもがここの避難所では二組目で、初めは30畳敷きの大広間に我々だけだった。

その後、8家族程度に増えたが、仕事を求め関東の方に行った方などあって、最後まで残ったのは、3家族で、皆さん、しばらくはここ新庄市に留まるようだ。

5月連休過ぎには、我々を含め全家族が、新庄市の市営アパート(団地)に入る予定である。

農地も借用できないか、お願いしています。

飯舘村には、時々用事があるとき戻っている。

今回もここのコミセンで、29日に計画的避難の説明などがあるため、4月28日から4月30日まで、自宅に戻ってきた。

今回の説明会での村長の話しの雰囲気では、たぶんしばらく戻れない(数年間)と覚悟を決め、その間新庄市に腰を落ちつかせようと思う。

ここ新庄市は、住めば都というが、市長さんはじめ、市役所の担当の方や市民の方々には大変良くしていただいていて、秋田県出身者としては、隣の県でもあり、大変親しみがあり、居心地がよい。

ただ、雪が深いのが玉にきずなのだが、秋田でも、昔から雪が深いところは人情も深いと言われている。確かにその通りなので、何とかやっていけるのではないか。

アパートに入るとインターネットも引けると思うので、この震災の経験とか、今までの溜まっていた更新をしたいと思うのだが、米粉関係のNPO的な仕事もありそうなのと、子育て(孫の子守。今はやりの"育ジー")を両立させないといけないため、相変わらず、どうなるかわからない状況ではある。

2011年4月30日 6時記

7月18日の飯舘村自宅とその周辺の放射線量の測定値について

前日、福島市で飯舘ベイクジャガイモ研究会の顧問の先生の退職のお祝いと総会が開催され、それに参加後、麦刈りのため飯舘村に戻った。

この時、先生から放射能測定器をお借りした。

翌18日、小麦の刈り取りをしようと小麦畑を見たら、飯舘見回り隊のO氏から教えてもらっていたが、その想像を超えたイノシシの踏み荒しで、ほとんど倒伏し、刈り取りは不可能であった。

そこで、借りてきた測定器で家や畑、周辺の放射能を計測してみることにした。

結果は、ここをご覧ください。

以前から問題視していた除染が難しい山林の汚染度がほぼ判明し、この分では早期の帰郷はほとんど絶望的である。

新庄市では、農業委員会に農地借用の手続き中で、今月末にその結論が出る。

多分よほどのことがない限り、借用はできるのではないか。

2011年7月24日 22時記


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